2011年東北地方太平洋沖地震の報告 |
2011年3月11日の東北地方の際,私は大学(東北学院大学)の自分の研究室(RC4階建ての3階)にいました。以下の報告にもあるように,すぐに停電となり,携帯電話も使えなくなりました。当時は,単身赴任中で,これも以下の報告にありますように,自宅が津波に使ってしまいましたので,大学の研究室で過ごし,地震の研究者の性で昼は付近の被害調査(ガソリンがないので,車での移動はできませんでした),夜は研究室という生活を送っていました。4日目の夜になってやっと停電が解除され,その日のうちにこれまでの4日間の状況をWebにアップしました。ところが,5日目の午後になって,研究室にいると,職員が来て,建物から退去命令が出たので,退出してくださいと言われました。調査に来た某ゼネコンの建築診断士の方が,全棟崩壊の恐れありという判断をしたのが理由のようです。この辺の話は,この報告の追加で書きますが,以下ではまず最初にアップしたものを紹介します。ただ,私はWebを作成することは当時は全くの素人で(今でもそうですが),単に事項を並べただけです。今回,新しいサイトにアップする異なって,最低限の形式だけは揃えることにしました。内容は(誤字を直した以外)当時のままいじっておりません。なお,説明のために追加した文はこの色(青)で示しています。また,今回,その後の情報も含め,その後の生活等所を追加しました。 |
目次 最初の4日間 5日目 その後の生活等 |
案内図 |
多賀城市の2011年の被害及び復旧はたがじょう見聞録に詳しいです。私の撮影したビデオもあります。 |
最初の4日間 |
地震でご心配をかけているかも知れません。 まずは元気なことを報告します。 ここでは,私の地震発生から,現在(3月14日午後8時30分)までの私の生活をお知らせします。 特に時系列を編集していません。従って,私のカメラで撮影した順番です。 3月15日。大学の電気が使える様になり,朝起きて,地震後初めて空腹を感じました。それまでは無理矢理詰め込んでいた感じです。そこで,このサイトは14日深夜にアップしましたが,なるべく私のメモも入れることにしました。「追加」とあるのがそれです。 |
一日目 3月11日 |
地震にあったのは,大学の研究室にいる際です。いつものことですが,地震で揺れが始まると,まず携帯で妻に電話をかけます。ところが,この日に限り,携帯を家に忘れてきました。そこで,大学の電話を捕まえて電話を始めました。また,机から少し移動し,本棚が倒れてきても被害を受けないようなところに移動するのもいつもの通りです。すると,揺れがだんだんひどくなりました。また,電話はぶつっと音が切れてしまいました。また,二つのディスプレイの内,一つが映らなくなりました。これは,電気が切れたことを意味します。本体の方は非常用の大きなバッテリーが備えてあったので,それが電力を維持してくれたのだと思います。そこで,少し揺れていましたが,収まってきたので,揺れながら,マウスを操作して,パソコンの電源を切りました。この辺まではそれなりに落ち着いていました。ところが,一度小さくなり,その後また大きく揺れました。そこで,スチール棚だけに着目することにし,地震が収まるのを待ちました。不覚にも継続時間は不明です。揺れが終わると,本が30冊ほど落ちていることと,スチールの棚が少し動いていました。しかし,パソコンのディスプレイは倒れませんでした。机の前の状況は以下です。 |
よく見たら,机の引き出しもでています。 |
スチール棚がずれている。 |
本も少し落下 |
早速カメラを持って階下に行き,山口先生と,宮城県地震がいよいよ来たことを確認し,周辺でもほとんど被害が無いようでしたので,まだ,明るいし,鳴瀬川の堤防の調査に行こうと話をし(堤防は翌日になると亀裂にブルーシートがかぶせられ,被害が見えなくなります),山口先生の車で,大学を出ました。その前に我が家によって,携帯を持ち帰らないと後々不便なので(実は,携帯の入っているポーチにはお財布,免許証などが一緒です),まず,我が家を目指してもらうことにしました。大学を出て,多賀城駅の横を通って,国道45号線にでたところで,車の量,および津波の情報などから,調査に行くのはあきらめて,山口先生には家に帰っていただくことにし,徒歩で,我が家に向かいました。家に帰ると,後で紹介するように,棚から書類が落ちている,パソコンのディスプレイが倒れている程度の被害で,家は構造的には無被害でした。まず,お風呂に水をためました。そして,携帯の入ったポーチを持ち,再び大学に戻るべく歩き出しました。ちなみに我が家と大学では徒歩20~25分です。途中は,本当に無被害です。 |
|
堤防も少し亀裂 |
このブロックの被害が唯一の被害らしい被害 |
家について,携帯電話を見つけ,早速,妻と母親に交互に電話をしたところ,まず,母親,次に妻に電話が通じ,とりあえず家が無事であることを伝えることが出来ました。多賀城駅の少し手前まで帰ってきたところで,津波が来たと大きい公報(堤防の方から拡声器の声で聞こえてきただけ)がありました。ここで,私のとるべきは多賀城駅の方に逃げるか(多賀城駅を超えれば地盤は高くなっているので,安全ですが,そのためには砂押川を超えなければなりません),国道45号線に逃げるかを選択しなければなりません。すると,津波が堤防すれすれまで来ているという声が堤防の方からあり,必然的に国道45号線の歩道橋の上に逃げざるを得ませんでした。実際には,津波は堤防を越えなかったので,後に述べるように多賀城駅に逃げるのが正解でしたが,瞬時の判断が要求される時に仕方のないことでした。歩道橋の生活 |
これは,中学生と思われるが,まだ,自転車で移動しようとしていて,津波の意識が無いように思えました。消防隊員と思われる人に注意され,避難しました。広い道路は国道45号線です。 |
歩道橋に上がってしばらくすると,津波が襲ってきました。中野栄側(西側)から流れてきました。仙台港の中央公園付近から上がってきたものと考えました。速度は非常にゆっくりで,津波に追われるように歩道橋に上がってきた人から聞くと,徒歩で逃げられる程度のスピードだったということでした。しばらくは,その写真とビデオをご覧ください。 |
まだ,立って話をしている人もいます。
|
やっと気がついたのか逃げ出しています。 |
車は前で停滞しているのか,進みません。 |
奥の方では水につかってしまった車もいます。手前の車はがんばったようで, |
前の列に追いついてきました。
|
どんどん,歩道橋のところまで水が来ます。ただ,水は,川のように流れるというイメージで,後のビデオでわかるように,海岸近くで家を破壊するような強力な流れではありませんでした。 |
以下はビデオです。サイズが大きいので注意してください。 |
どんどん水流が増えてきます オリジナルのmovファイルはこちら | |
奥の方から車が流れてきます。いつも被害調査に行ったとき,車が結構流されていて,すごい力と思っていましたが,実は車は軽いというのを流れていく様子を見て,理解しました。内部が密室なので,見かけの比重が小さいのですね。 オリジナルのmovファイルはこちら | |
車の中には運転手がいます。 オリジナルのmovファイルはこちら | |
この車は歩道橋のすぐ近くで回転しだし,見ている人から悲鳴が上がりました。この運転手は一旦車の上に上がり,また車の中に戻っていきました。そして,反対側に流れたときには運転手は見えませんでした。どこかに逃げておられたら良いのですが オリジナルのmovファイルはこちら | |
流れはどんどん早くなります。 オリジナルのmovファイルはこちら | |
前方に光っている車は消防車で,砂押川の堤防上にいます。そこまでは津波は流れていきません。 オリジナルのmovファイルはこちら |
オリジナルのmovファイル |
オリジナルのmovファイル 車は行き止まりになると動かなくなりますが,そこに車が重なってきます。 |
オリジナルのmovファイル |
オリジナルのmovファイル |
オリジナルのmovファイル |
オリジナルのmovファイル 歩道橋に避難してきた人々。一番上は風の吹きさらしだが,階段には防風のフェンスがあるので,ここにいる人が多かった。 |
オリジナルのmovファイル |
オリジナルのmovファイル 遠くで火災の煙が。ちょうど自宅の方向 |
|
| ||
車の上にのっている人 |
|
||
車の上にのっている人 |
水はちっとも引きません。そうこうしているうちに暗くなってきました。この時点で地震後3時間。こんなに長く水が引かないのは全く予想外でした。 |
|
発電所の方向が赤くなりました。火災です。方向は我が家の方です。夜の火事は近くに見えるといいますので,大分遠くとは思いましたが,心配でした。 |
|
ただ,一方では,堤防の上の消防車が大きなマイクで,今,船を手配しましたので,しばらく我慢してくださいという音声が入るのですが,船はちっとも来ません。待っている人からは,しばらくとはどのくらいの時間だという不満がたくさん出ていました。かなり立ってから船が来ました。まず,病人と女性とということで,10人ほどのる船が2回でました。消防隊員でしょうか,水の中を歩いて船を押してこられました。しかし,その後船は全く戻ってきません。どうも,もっと緊急性があるところに船が回されたようです。それにもかかわらず,相変わらず,しばらく我慢してくださいという放送で,どうなっているのだという不満は多くの人から聞こえました。 そうこうするうち,水上バイクが出てきました。すごいスピードで走っていきます。残念ながら,我が歩道橋は素通りです。緊急を要する人が他にいるということでしょう。そのうち,水上バイクが船をひいていくようになりました。こちらも緊急の病人がいるということを伝えたのですが,心肺停止の人を運んでいるなど,周辺では相当に大変だったようです。 夜も更けてきますが,何も起こりません。とにかく寒いです。 |
|
やっと,船が来ました。午前2時20分です。 これからこちらに専念してくれるようで,10人のりと3人のりの二つでピストン輸送してくれました。 |
ボートをこいでいる。 | |||
やっと,砂押川堤防に着きました。ただ,こちらに来ても暖かい毛布も,暖もありません | |
一旦,テント小屋に収容され,毛布が渡されましたが,それは瞬間のことで,次のグループが上陸してくると毛布か交代です。 | |
個人票を書くようにいわれ,とりあえず記述。これを首からかけておくらしい |
市役所が避難所になっているが,明かりのない夜道を行くので,道がわかった人だけにしてくださいという指示で,道がわかった私は市役所の隣の大学の研究室に戻ることにしました。大学の,守衛所で話をすると,礼拝堂が避難所になっているということで,しばらく守衛さんの所で暖をとり,非常食をいただいた後,礼拝堂に行きました。幸い,毛布を一枚借りることが出来たので,いすに横になって寝ました。午前3時過ぎです。 |
|
手洗いにはいろんなものが落ち込んでいました。
|
本は,20~30冊程度でしょうか,落ちていました。すぐになおしました。
|
学生の部屋です。壁に亀裂が入っています。また,パソコンが倒れています。同じパソコンが2台倒れていただけの被害でした。
|
私の部屋の食器棚。下だけずれています。
|
これだけ確認して,すぐに家に戻ることにしました。往復4~50分ですが,この日は3回往復しました。最後だけ自転車を借りることが出来ました。 |
まだ,救出される人もいます。
|
火災は相変わらずの様です。
|
|
携帯電話はまだつながりません。公衆電話はつながると言うことを知っていましたので,情報を集めたところ,市役所と多賀城の駅にあることがわかりました。どちらも家に帰る途中にあります。市役所の公衆電話はだめでしたが,駅の公衆電話は上の右2枚の写真に見られるようにつながっているようで,列が出来ていました。とりあえず,パスして我が家に。 |
砂押川の水はずいぶん引いています。
|
堤防は少し亀裂が
|
火災はより近く見えます。
|
少し泥がたまっていますが,草には泥が無く,なぜなのかわかりません。
|
ここまで水が上がってきたのかわかりません。
|
|
付近の家の水跡からみて,床上浸水は確実。ただし,それほど高くないことを確信しました。
|
自転車で行こうとしている人もいました。
|
ここを右に曲がるとすぐに我が家ですが,現状はだめです
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
対岸も同じ位置でかなり被害が出ています。 |
|
|
|
|
|
|
|
|
誰か,この災害用伝言ダイヤルを聞いた人があったら教えてください。実際問題としてどれだけ役に立ったか気になります。 ちなみに,この災害用伝言ダイヤルは余り役には立っていないようにも思います。それは,携帯では,171につながりません。外部と同じです。これだけ宣伝してきたのだから,171はすぐにつながるようにしておいて欲しかった。 |
|
大学付近は車も通るし,被害もありません。
|
大学に戻ると給水車が来ていました。
|
|
|
|
|
|
|
途中まで出てきたので,再度家まで行ってみました。先ほどより水は引きましたが,まだ,いけません。
|
|
|
| |
|
相変わらず,火災は続いています。
|
武器が無く,家の中に入れないので,とりあえずは大学に戻ることにする。
| |
周辺はまだ水没している。
|
大学に戻るともう夜で暗くなっている。避難所で,ビニール袋で炊いたご飯の配給を受ける。 この日は,大学の職員二人と,土木事務室で寝る。寝袋を大学に置いておいたので,床に段ボールを敷き,寝袋で寝た。暗くなると,停電,断水の状況ではすることがないので,6時過ぎには睡眠。すると,朝は3時頃には目が覚めた。 |
道路の前は泥がたまっている。
|
家の周辺。基本的に,道路には余り泥がたまっていない。水が留まったところに泥がたまるようだ。さらに,砂がたまった所もあり,不思議でもある。
|
扉を開けると,泥がっすらと積もっている。津波深さは床上50cm程度でした。 まず,ショックです。せっかくお風呂にためた水が,流れてしまっていました。風呂の中にも津波の水が入ったようで,そのため,栓が外れたようです。それにしても,満タンまで確認しておいた水が無くなっているのは大ショックでした。(後でわかりましたが,風呂の栓が劣化していたようです。普段使う,お湯を入れて1時間ぐらいでしたらそれほど影響がなく,気がつきませんでした。ぐっと栓を排水口に押さえて入れれば良かったようです。地震後に風呂を水溜に使ってわかりました。すぐに新品を買いに走りました。また,津波が入ってきたのはほとんどが床下収納からと言うことがわかりました。プラスチックの箱ですから見かけの比重はほぼ0です。) |
|
畳の部屋には泥がたまっていないで,中央にきれいな水がある。下から水が上がってきて,畳は浮き上がったと考えられる。布団類はぬれていなかった。袋に入れてあったので,浮き上がった畳の上で,水につからなかったものと考えられる。この部屋では捨てるものはなし。 ちなみに,現在はこの家は私が一人で住んでおり,15日に妻が引っ越してくる予定であった。一階は妻が持ってくる家財を置く予定にしていたので,現状ではほとんど何もなかった。こたつのみがあったので,そのかけ布団と敷ものはびっしょり濡れており,廃棄を決意。その他は廃棄するものは本当に少ない。 |
さて,片付けの方針であるが,山の泥を片付ける必要がある。幸い,一件隣の横に小川があり,普段は水が流れていないが,この日は流れていた。堤防が決壊したのが原因と後で聞いた(実際には,樋管の被害)。余りきれいではないが,この水を利用することにした |
ここで,作業が二つある。まず,部屋の中のものをどこかに置く必要がある。しかし,周辺はどこの泥だらけである。そこで,駐車場の泥をまず,どけることにした。その後,廃棄する敷物を敷いて,そこに家具類を移動させた。 |
後ろの半分だけの泥を前の方に押し出す。半分程度作業が終わったところ。
| |
こたつは布団類が全滅。
| |
床下収納が浮いている。
|
板の間はこの程度に。
| |
畳は近所の人に手伝ってもらって排出。畳の下にも泥がたまっているが,こちらは表面がなめらかではなく,うまく出来ない。
| |
愛用の道具。バケツとバスマットである。これで,少し泥を拭いたら川に戻ってバスマットを洗い,家に戻ることのこの日は一日中繰り返した。この作業はおおよそ午後4時まで続けた。よく体が持ったものと思う。
| |
トイレ。中まで泥である。少し泥をどけた状態。
|
冷蔵庫は少し位置がずれただけ。
|
本棚は全滅
| ||
机の前のディスプレイは二つとも見えない
|
ティスプレイの一つは横に。
|
もう一つは前に倒れていた |
欲しかったのもが二つ。一つは室内履き。最初は土足で上ったが拭き掃除を始めるとどうしても欲しくなる。もう一つは外用のサンダル。 |
左は大学から持ってきた外用のサンダルだが先が閉じているため泥がたまってだめ。右は新しく買って玄関に置いておいたものだが,なぜか一方しか見つからないので使えなかった。翌日になってもう一つは見つけた。
| |
バスマットで泥をとった状態。いくら吹いても,基本的にバスマットの泥をある程度しか洗えないので,乾くと,拭いた後が泥で残っているが致し方なし。
| |
今日はこれで作業終了。大学に戻り,夕食を確保。レトルトの餃子であったが,これを加熱せずに食べるというのは初めての経験。 夜は昨日と同じ部屋に泊まる。ただ,職員二人は家に帰ったので,今日は一人である。例によって,暗くなったら寝るということで,早めに寝たら,10時頃には目が覚めてしまった。仕方ないので,ろうそくの光で,読書。日経ビジネスを一冊読むのがやっと。後,いすに座ってうとうとしたりして時間を過ごしていた。すると,携帯にメッセージ。メイルがありますということ,これまでは圏外になっていた(基地局がいかれたということで,初日の夜からずっと携帯は役に立たなかった。)携帯が,アンテナに変わっている(アンテナのみ)。携帯の電池は初日に無くなっていたので,ノートパソコンで充電していたものだ。ただ,何度受信しようとしても,受信は出来ない。ひょっとしてと思い,3階の研究室に来てみると,アンテナが3本。メイルを受けることが出来た。 この日は,前日に使えた駅の公衆電話は使えなかった。ちなみに初日も県外はつながったが,県内はつながらなかったらしい。 そこで,迷惑と思ったが,妻に電話。つながった。ずいぶん長話をし,18日の韓国出張をキャンセルするように依頼。その後,長めのメイルを書き,携帯に登録してあるかなりの方に連絡。二度つながらなかったが,三度目に送ることが出来た。また,届いたメイルで返事が必要そうなものは返事をしたところ,どれも1~3度でつながった。思うところ,この夜中では電話を使う人が余りいないためであろう。 |
お風呂の水をみると,下に粒子がたまり,上の方は大分きれいである。これで床を拭こうと思ったが思い直して,川の水を使うことにする。 |
冷蔵庫と棚は配置を少し換えて,復旧。
|
こちらは,ついに物置に。
|
机も復旧。
|
本棚と,我がスポーツジムも復旧。
|
と思ったら,津波警報。ラジオも言っているし,これは避難するしかない(気象庁の誤報だったことが後でわかった)。またまた,近くの歩道橋の上に。近くを消防車が通り,後5分で津波が来ます,といって走っていった。ところが待てど暮らせど津波は来ない。15分もすると,来ないとして帰ってしまう人もいる。もう少し待つように話をしたが,ほとんどが聞かないで帰って行く。そうする内,ラジオから,気象庁の津波はないという発表。あの,後5分で来ますというのは何だったんだろう。 たぶん,非難の危機感をあおることで非難して欲しかったのであろうが,5分というと15分も経つと帰ってしまう人が多い。その後に津波が来たら,5分と言った人は責任をとってくれるのであろうか。また,あれだけ,避難せよと行った,防災放送が,その後なんの放送もない。集めるのは集めておいて,帰るのは自主判断にというのであろうか。いかにも無責任である。ちゃんと,避難しなくて良いという放送をして欲しい。 |
歩道橋での避難
| |
堤防の決壊箇所,ダンプが一台土をおいたところ。何杯いるのやら。
|
これで,家ではすることが無くなった。床の上にはまだ泥の後があるが,きれいな水でないと無理で,水道の開通待ち。開通すれば一日で何とかなりそう。ということで,4時頃には大学に戻ることにする。 |
給水車には列が。持っているものをみると,78年宮城県沖地震の時とは大違いで(当時はやかん,バケツ),プラスチック容器が大部分
| |
避難所も静かである。
|
大学に帰ると,電気がつき,その後インターネットも使える様になっており,これを発信できるようになった。 まだ,我が家は停電と断水であり,これが復旧するまではどこにも行けない。大学も断水で,ずっとお風呂にも入っていない。まだ,当分我慢である。 |
これが,今夜のベッドである。この上に寝袋を置いて寝ることに。大失敗であった。エアコンの風がどんどん通っていき,寝心地が悪く,3時間しか眠ることが出来なかった。
|
この4日間,情報は,ラジオだけである。避難民の立場から,ラジオの放送についての意見。 ニュース:役に立つ。自分の地域は無くても,同じような人がたくさんいるということがわかれば,一人だけ落ち込んでいられないという気になる。 地震の解説:自分が地震の研究者であるためであろうか,ほとんど何の役にも立たない。しかも当然のことをいかにも重要にいわれるので,若干頭に来ることも。「落ち着いてください」といわれ,私はたぶん一番落ち着いている方だが,じゃあ,落ち着いて何をすれば良いのということがない。落ち着いていない人に落ち着いてくださいと言って落ち着くものでも無いでしょう。 放送内容:被災地向けと,それ以外の内容を区別して欲しい。被災地の人にとってはどんなメカニズムで地震が起こったなどはどうでもよい。これからの生活がどのようになるのかという情報が大事で,それしかない。 危機感をあおるような言い方も困る マスコミとしては安全側の表現をしているつもりかも知れないが,周辺の人の行動をみていると,それで恐れてしまっている。どれも真実のような言い方ではなく,確実にわかっていること,予測に過ぎないことを区別して話すようにして欲しい。 復旧情報も欲しい 例えば,多賀城市のサイトに行くと,停電から復旧された地域の地名があがっている。しかし,その他の地域については,何も書かれていない。これを,例えば予測では5日後,というような記述が出来ないであろうか。例えば明日水道が通るとわかったら,大量の水を買いだめしなくてもよい。なお,5日後と書いて,10日かかるでは困る。早く開通するのは歓迎なので,余裕を見た日程でもかまわない。これだけで,がんばる元気が出てくる。 |
津波で被災した,停電と断水という意味では大きな被害者であるが,それでも私は非常に恵まれていた。 まず,妻の引っ越しの直前であった。このため,被害自体が少なかった。 また,すぐ近くに川があり,きれいとはいえないまでも何とか使える水があった。一件隣の横が川で,移動距離も短かった。これが,二件隣だったら,三件だったらと考えると,非常にラッキーとしか思えない。 さらに,環境も良かった。大学に帰れば,水も食料もある。また,研究室には飲み物もある。さらに,直前に東京から二組の客があり,学生用にという量のある お菓子をおいていってくれ,卒業生が卒業旅行からのお土産といって,これもお菓子をおいていってくれた。 ということで,水にも食料にも困らなかった。さらには,大学には石油ストーブもあり,夜も寒くなかった。 おかげで,家の復旧に全勢力を使うことが出来た。 所で,以下は,水道関係の新聞に依頼され,地震の直前に書いた原稿である。まだ,未発表であるが,紹介する。 |
私の専門は地震時の地盤や構造物の挙動であり,国内外の地震の被害調査も数多く行ってきた。その経験に基づき,水道の役割について考えてみたい。水道はライフラインの中でも重要で,日常生活には無くてはならないものである。ところで,たとえば地震により水道施設が被害を受けることは多々ある。水道が不通になる期間は一週間以上にわたることもある,これに備えて,水道事業者は水の備蓄も行っている。しかし,ここで,事業者と一般人の間には考え方の差があるように考えられる。
人間が一日に必要な水は3リットルといわれている。そのすべてを飲み水としてとっているわけではないが,事業体などではこれを基準に備蓄量を決めているようである。しかし,実際に地震の被災地に行くと,被災した次の日からペットボトルなどの緊急物資が届けられるので,この水に困っているようではなく,他の目的に使うための水で困っている。文明人としての生活を維持するには炊事,入浴,トイレも必要で,これが奪われるのが問題である。
現在のような備蓄システムでこれらの水を確保しておくことは不可能であろうから,備蓄以外の対応が必要であろう。過去の地震では耐震管はほとんど被害を受けていないので,これに移行するなどが考えられる。これらを通して,地震の被災地域でも文明人としての生活が出来ることを期待したい。 |
甘かった。必要なのはこれだけではない。水がないと手を洗うことも出来ない。私もずっと,川の水で手を洗ってきただけである。 電気はこなくても良いが,水だけは欲しいと思う。 これまでの経験から,復旧までの時間は,電気は1日,水道は1週間,ガスは一月のイメージを持っていたし,教えてもきた。しかし,今回は我が家のみならず,広域で4日経っても電気がこない。水道は当然1週間では無理とあきらめている。 温泉に行けば風呂に入れるのだろうか。こういう情報が非常に欲しい。また,ガソリンはどこで入れることが出来るのか。これもわからない。近くのスーパーも開いていることがある。しかし,気がついた人だけのもので,袋を持って歩いている人に聞いて,やっとわかる程度である。それから行っても何時間も待ちの行列で,私などははじめからあきらめである。こういう身近な情報はどこも出してくれない。しかし,今,本当に必要なのは,こういう情報である。 当然必要な情報は人によって異なるということは理解しているつもりである。しかし,4日も経つと,被害の状況はかなり飽和しているように思う。このような身近な情報はどうしたら発することが出来るのだろうか。今後の課題のように思う。 |
電気もついて,5日目からの生活は劇的に変わった。といってもついているのは大学だけで,我が家はまだ停電,断水状態である。 先に示したように,家はこれ以上はする事がない。とはいっても,5日目は少し作業をしてきた。 よい天気で,部屋から出した畳が少し乾いてきた。塩が吹いていない。ということは湛水したのは真水(砂押川の川水)だったのだろうか(後で,溜まった水を煮沸した後なめてみたら,全く塩分がなかった)。ラッキーである。塩が入ってくると,畳や床材が塩を吸い込み,乾くと吹き出してくるので手当が大変であるが,水だと,泥を吐き出せば使えるようになる。 そういう目で見ると,乾いてきた畳は,再利用も出来そうである。いずれは交換する必要があるかもしれないが,幸い,我が家は妻がきても少し広さがあるので,畳の復旧は急ぐ人に先にしてもらうこととし,我が家は一番最後でもよいかと思った。今,畳は屋根付きとはいえ,オープンスペースの駐車場に立てかけてある。雨が降ると,下を水が流れればまたぬれる。これを避けるため,畳の下に木を入れ,さらに間にスペーサーを入れ,乾燥が早くなるように考えた。といっても,一人では8枚の畳を移動させるのは大変な作業である。たとえ非力でも,ちょっと抑えてといえる人がいるだけで大きく作業がはかどる。何とか,がんばった |
この状態を
|
ここまでした。
|
その効果は,午後に雨が降り出してから明らかになった。6日目の朝に確認したが,新しくはぬれていないようである。ただ,乾燥は遅くなるが致し方ない。 少し余裕が出たので,家の周りを見てみた。隣家は,ほとんどが当座の復旧をあきらめ,知人,親戚などに避難しているので,ほとんど地震時のままである。 堆積物の違いが目についた。我が家は泥が貯まっていた。しかし,向かいの家はシルト,ないし砂分が多い。また,道路にはほとんど貯まっていない。冠水時間ではなく,流れる早さが問題なのかもしれない。おもしろいと思った。 |
隣家,泥が貯まっている。
|
同じ家。物置が傾斜したまま。
|
向かいの家。シルト分が多い。
|
小川の橋の上。私が水を汲んだのと反対側。最初から漂流物が貯まっていたところであるが,近所の復旧する人が自然と不要物をここに運んでくるようになり,だんだん貯まっていった。
|
川に沿った道路は,流れ着いた車などが片付けられていき,次第にきれいになってきた。
| |
ゴミ収集所である。明らかにすぐにはゴミ収集にはこないとわかっているはずであるが,持ってくる人がいる
|
家の敷地内が大部分です。すっかり片付けたと思っていたら,物置が残っていました。扉が自動的に開いてしまったようです。新品を含め,三つのスーツケースが水没。夏用のタイヤはなぜか三つしか残っていませんでした。周りを探したら,家の奥の隙間で見つけました。ほっと一安心。 ついでにと思って,土の上に溜まった泥もどけようと少しがんばりましたが,家の復旧と異なり,力が出ません。途中でギブアップしました。後は,電気と水道がつくまで,本当に何も出来ません。ただし,着替えが続く限り,着替えには戻ってくるつもりです。 |
私の今いるところは,大学の復旧対策本部である。ごく少数の教員を除き,後は職員で,この方達は大学と避難施設である礼拝堂の維持に一生懸命働いておられる。その中で,教員だけが,そのおこぼれをいただいて生活している。その意味では罪悪感がある。 では,私も職員の仕事をすべきなのであろうか。よくわからない。ただ,職員の献身的な働きで,現在はここは維持されている。たぶん,私の職務は,この様な発信と,被害を受けたものではわからない感覚で,将来の地震防災に対して意見を言っていくことなのであろうと,自分なりに理解することにした。職員の方には全く申し訳ないが,自分なりの生活をしていこうと思う。同僚の教員から幸い自転車を借りることが出来た。天候がよくなれば,これで,周辺の被害地域を回って,将来に備えたいと思う。 |
ここでは,その後の生活を箇条書きで示す。10年近く前の話なので,記憶違いがあるかもしれないことをお断りしておく |
|
小川の横に集まった廃棄物
|
自宅前に詰んだ津波の泥
|
それ以外に,自宅の前にも積み上げた。これがいつの間にかなくなっている。市役所から委託を受けた業者が運んでいくようである。たまたま回収しているところに行き当たったので話を聞くと,相当忙しく運んでいるらしい。 一旦撤去されてきれいになったと思ったら,すぐまた新しい瓦礫が集まるという状況がずいぶん続いたが,5月も終わり頃になるとだんだんなくなった。ただ,5月末に家内が来たときにもそれなりの量はあり,妻が復旧が進んでいないと判断した理由になったみたいである。 |
|